『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は、懐かしい時代に取り残された大人たちと、未来を取り戻そうとする子供たちの物語だ。
けれど、ひろしもケンもチャコも、単純に大人と子供という言葉では説明できない。
彼らは過去をどう捉え、未来に何を求めているのだろうか。
本記事では、3人の登場人物としんのすけを比較しながら、『オトナ帝国の逆襲』が描く「大人」とは何かを考えていく。
本記事では、3人の登場人物としんのすけを比較しながら、『オトナ帝国の逆襲』が描く「大人」とは何かを考えていく。
20歳になったら「大人」がどこにもいなかったゾ
20歳になって大人になったら、大人なんてどこにもいないことに気づいた。
感情に振り回され、自身の考えに執着している。
根拠のない自信。口を開けば自慢話。立場が下の人間を見下す。気に入らないことあれば立場を盾に当たる。
できることが増えただけで、中身は大して変わらない。大きくなっただけの子供だ。
大人って結局何なんだろう。。
そうして私は、暇を持て余した年明けに一人観た映画を思い出した。
『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』
大人と子供、懐古、憧れ、過去、未来、、、
国民的アニメのクレヨンしんちゃん、そしてクレしん映画屈指の名作であれば、答えを見つけ出せるのではないか?
じゃ、そういうことでクレしん映画オトナ帝国から大人とはなにか考えていくゾ
『オトナ帝国の逆襲』に登場する大人たちは何を求めているのか
この映画冒頭で、大人たちは20世紀博を存分に楽しんでいる。
一方しんのすけのような子供達は、大人たちの熱に困惑しつつ、退屈そうにしている。
20世紀博を楽しめるかどうかが大人と子供の違いなのだろうか。
20世紀博の託児所で風間君はこんなことを言う。
「”懐かしい”ってそんなにいいものなのかな。」
この作品では「懐かしさ」を感じられるのが「大人」なのだろうか。
2026年、21歳でこの映画の冒頭を観た時、
私は「イエスタデイ・ワンスモア」を悪の組織だとは思わなかった。
懐かしさを堪能できる20世紀博。素敵じゃない?大人達も子供時代を思い出せて幸せそうだし。
子供の目に20世紀博はどう見えているのか。もう大人になってしまった私にはわからない。
心の奥底、子供の頃の私に聞いてみることにした。
子供の頃に観た「オトナ帝国の逆襲」
小学校低学年くらい頃、私は「オトナ帝国」を少し怖い映画だと思っていた。
大人たちがある日一斉におかしくなって、自分たちを置いて行ってしまったら、、、
私達は子供だけでどうやって生きていこう。ご飯は?学校は?生活は?
私にも下の兄弟がいたが、しんのすけのようにひまわりを背負って逞しく生きていける自信はなかった。
(サトウココノカドーで寝泊まりするのは楽しそうだと子供ながらに思ってもいたが。)
当時の私にとって、私達子供の未来を奪うイエスタデイ・ワンスモアは紛れもなく悪の組織だった。
そしてもう一つ、重要な疑問を思い出した。
「埼玉紅さそり隊」もオトナなの? という疑問だ。
彼女たちは成人していない高校生ながら、懐かしい匂いに当てられてしまっている。
「オトナ」は年齢だけでは説明ができないのだ。
この映画における”大人”について考えるべく、まずは作中の成人に焦点を当てたい。
まず、注目すべきは野原ひろしだ。
野原ひろしはなぜオトナ帝国ではなく未来を選んだのか
ひろしは一度過去に魅了されてしまったが、自身の足の匂いによって洗脳から逃れ、未来を生きる意志を見せる。
なぜ記憶を取り戻すのがひろしの”足の匂い”だったのだろうか。
懐かしい匂いとはどんなものか作中で明言されていない。それは、人によって懐かしさを感じる物が違うからだろう。
一方、ひろしの足の匂いは、野原一家の現在の生活、日常に根差した匂いだ。そして、ひろしの足の匂いで洗脳が解けたのはひろし、みさえの2名のみである。恐らく他の洗脳された大人達には効かない。
ひろしにとっても、20世紀は懐かしさを感じるものであった。
しかし、彼の中で過去は過去として独立したものではなく、現在に繋がるものなのだ。
ひろしは、強烈な匂いになるまで長い間自身が歩いてきた道のりと、作り上げてきた人生を思い出し、洗脳から逃れることができた。
では、同じように20世紀を知っている大人と比較して考えたい。
ケンにとっての20世紀、過去とは何なのか。
ケンはなぜ20世紀に戻ろうとするのか
ひろしとケンは同じように過去を知っているが、一つ決定的に違うところがある。
「現在」に対する態度である。
ひろしは20世紀という現在でかけがえのない家族ができ、家族との生活のために明日を望む。
一方、ケンの21世紀に対する評価は散々だ。
「今の日本に溢れているのは、汚い金と燃えないゴミぐらいだ。」
ケンとチャコは、21世紀の人々は心が空っぽだと言う。20世紀の人々は皆心を持っていたとも。
ひろしとケンを分けているのは、現在をどう見ているかだろう。
ひろしにとって過去は、自分が今まで歩いてきた人生の一部だった。
一方ケンにとっては、過去が「現実から逃げる場所」になっている。
それを示唆するかのように、彼が20世紀の街並みを再現して作った夕日町は、イエスタデイ・ワンスモアの本拠地の地下に現実から隔離するかのように置かれている。
ひろしは過去を「懐古」し、ケンは過去を「逃避」する場所として見ている。
ケンが過去に戻ろうとするのは、過去を愛しているからというより、未来を信じられないからではないか。
そう考えると、「大人」とは単に年齢を重ねた人ではなく、未来が必ずしも明るいものではないと知ってしまった人なのではないか。
『オトナ帝国』が描く「大人」と絶望の関係
この2人を比較していると、ある仮説が見えてきた。
大人とは、過去の経験を通して「絶望を知っている人」なのではないか。
子供は、自由な発想を持っている。人生における経験が浅いため、真っ直ぐに未知の未来への希望を抱くことができる。
しかし、大人は長い人生の経験から、未来が必ずしも希望に満ちたものではないと知っている。
期待が外れること。努力が報われないこと。夢が叶わないこと。
大人と子供の違いは、幼稚園バスでカーチェイスをする場面にも強く見られる。
ボーちゃんは園長先生の運転を見ていた→運転できる…!とバスで逃げることを提案するが。
これが大人であれば、子供がバスを運転すれば事故になる。と考える。
これは、想像通りに事が運ばないことや、思い通りにならない現実を知っているからではないだろうか。
子供は大人ほど「こうなるに決まっている」という経験を持たないからこそ、自由な発想ができる。
大人は絶望を知ってるが故に子供の想像力には敵わず、滑稽なまでしんのすけ達に翻弄されてしまう。
絶望を知ったとき、ひろしのようにそれでも未来を生きようとするか、ケンのように未来から目を背け、過去へ戻ろうとするか。
大人とは、過去を生きて絶望を知ってしまった人、そして、
絶望とどう向き合うかを迫られる人 なのではないか。
しかし、この説ではどこかひっかかる人物がいる。
チャコである。
チャコはなぜ知らない過去に憧れるのか
チャコは明らかに大人側の人物だが、ケンとは過去の捉え方が異なっているように見える。
チャコは20世紀を生き、過去に絶望した人物とみなすには若すぎるのだ。ケンは40代近くに見えるのに対し、チャコは20代くらいに見える。
作中を注意深く見ても、20世紀博の地下、夕日町で暮らす人々の中にチャコほど若々しい人物は存在しない。
そして、ケンはしばしば20世紀のことを口にする。
「昔、外がこの町と同じ姿だったころ、人々は夢や希望に溢れていた。」
このセリフは実際にその時代を生きた人間の証言として受け取ることができる。
では、チャコはどうだろうか?
「ここに来るとホッとする。」
「未来が信じられた あの頃まで。」
「どうして ねえ!どうして?現実の未来なんて醜いだけなのに。」
夕日町の風景を好んでいるような発言はするが、具体的な20世紀の記憶を語ることはない。
私には、全て現実から逃げるための言葉に思える。
ケンは、20世紀を実際に生き、その時代を知ったうえで現在の21世紀を嫌っている。
一方でチャコは、20世紀を十分に生きていないのに、20世紀を求めている。
チャコは「知らない過去への憧れ」を持っている。
彼女が求めているのは20世紀そのものではなく、現実を歩むことから逃げ出せる不変の理想郷であるように思える。
未知の世界への憧れを抱くチャコと、まだ見ぬ未来の出会いに憧れるしんのすけ、
大人側のチャコと子供側のしんのすけはどこか似ているのではないか。
ここまでの4人の視点を整理したい。
| 人物 | 過去 | 未来 |
| ひろし | 自分が歩いてきた人生 | そこから先へ進む |
| ケン | 生きてきた20世紀 | 過去へ戻りたい |
| チャコ | 知らない20世紀 | 期待できない |
| しんのすけ | 知らない過去 | まだ見ぬ未来 |
こうして並べてみると、大人は過去、子供は未来、という単純な構図ではないことがわかる。
ひろしは大人ながら未来へ進み、チャコは若くして過去へ向かっている。しんのすけ達は、まだ知らない未来へ進もうとする。
『オトナ帝国の逆襲』で「大人」と「子供」を分けるものとは
それでは、大人と子供を分けるものは何か
年齢か?
これは違う。埼玉紅さそり隊は高校生なのに「オトナ帝国」に取り込まれてしまう。
過去を知っていること?
これはひろしやケンに当てはまるが、20世紀を詳しく知らないチャコが例外になるので違う。
絶望を知っていること?
これも完全ではない。
ケンは過去を知り、絶望している。チャコは「過去の絶望」を知らない。
そしてひろしは絶望を知りつつも、未来へ向かう。
では何なのか?
ただ、ここで少し気になることがある。
『オトナ帝国』では、未来を取り戻す役割を子供たちが担っている。大人たちが未来を諦めたからこそ、子供に未来が託される。
それは本当に子供自身の希望なのだろうか。それとも、大人が「子供には未来を信じていてほしい」と願っているだけなのだろうか。
子供向けの映画なのに、少しだけ子供を置き去りにしているようにも感じる。
「大人」と「子供」を分けているのは、何を知っているかではなく、知らないものにどう向き合うかではないか。
これを踏まえると、ひろしとケンの違いも明確になる。
2人とも20世紀を知り、未来が必ずしも明るくないこともきっと知っている。
それでもひろしは家族のいる生活を選んで未来へ向かい、ケンは現在を捨てて過去へ戻ろうとする。
そしてチャコは、そもそも深く知らない過去に理想を見ている。
こう考えると、「大人だから過去に戻りたくなる」「子どもだから未来を信じられる」という話でくくるものではないだろう。
大人になるということは、絶望を知ること、ではなく、
絶望を知ってしまった後、それでもどうするのかを考えなければならない人なのかもしれない。
『オトナ帝国の逆襲』から考える「大人」とは何か
大人達は初めからずっと大人だった訳ではない。子供時代から地続きになって皆大人になるのだ。
私も大人になれば、勝手になるものだと思っていた。「懐かしい」を感じられるようになっても、自分が大人だという実感は湧かなかった。
法律的には大人には20歳でなれるのだが、精神的な「オトナ」にはいつなるのだろう。
むしろ、わからないことが増えたとさえ思う。
ひろしもケンもチャコも、年齢も過去との関わり方もそれぞれ違っていた。
しかし、彼らに共通していたことがある。
それは、子供のころには知らなかったことを知っているということだ。
未来は希望に満ちたものではないこと、過去は取り戻せないこと、、
そういう絶望をいくら経験しても、何度打ちのめされても、生きていかなければならない。
望んでいなくても、未来へ歩かなければならない。
大人とは、いろいろなことを知ってしまった、大きな子供なのかもしれない。
大人になってもう一度「オトナ帝国」を視聴すると、チャコが一番自分に似ているような気がした。
チャコは、自分の知らない世代を「懐かしい」と感じ、憧れを抱く。そして逃避先にもする。
私も、生まれる前の文化にどうしようもなく惹かれてしまうことがある。
生きていなかった時代が、なぜこんなにも魅力的に映るのだろう。
チャコについてはまた別の記事で考えてみたい。



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